みなさん、かなり唐突ですが、オーストラリアに対して過度に良すぎるイメージをお持ちではないでしょうか?
《大都会と大自然の融合》《のんびりした雰囲気》《暖かく住みやすい気候》《人間味のある素朴な人たち》《シドニーやケアンズは賃金が高い》《アデレードは何もない》《アデレードをそもそも知らない》
など、特に日本人であれば、ポジティブなイメージを持たれてる方が大半だと思います。(アデレードはネタとして)
そしてそれらのイメージは、確かに現在のオーストラリアを言い当てており、一面正しいです。
では、次にこのポスターを見て、どう思うでしょう?
オーストラリアの公式な観光ポスターにデカデカと載る先住民アボリジニの方々です。
どうでしょう?こういうポスターを見ると、さもアボリジニはオーストラリアで独自の立ち位置を確保し、活躍しているように見えます。
🟢 独自の伝統文化を継承し、人気者のアボリジニ
🟢 政府にその文化•芸術を保護され、重宝されるアボリジニ
🟢 現在のオーストラリアにとって、なくてはならない存在
というようなところが、オーストラリア政府が諸外国にアピールする現在のアボリジニの姿です。
でも、どれもこれも、みーんな都合の良い対外的なウソです。
オーストラリアに実際に住んで、それがよくわかりました。さっき“一面正しい”と表現したのはその理由です。
オーストラリアは、現地の白人や移住者にとって住みやすい国でも、アボリジニにとってはその逆なのです。
ということで、今日はオーストラリアのアボリジニが受ける悲惨な処遇の数々をお伝えします。これからオーストラリアに行く方々も、こういう負の面があることを事前に知っておくべきと思いますので、ぜひお読みください。
アボリジニの簡単な歴史
*歴史のブログではないので、サラッと簡単に説明します。
アボリジニは、オーストラリアの先住民で元々、狩猟や採集などで生活してきましたが、250年前にイギリス人が突如現れ、支配されてしまいます。
土地を強奪され、隔離され、虐殺され、またヨーロッパから持ち込まれた疫病などにより、1770年に100万人いた人口は、1900年前半にはわずか7万人となります。
その後もこのオーストラリアの地において、イギリス入植者の子孫たち(白人、いわゆる世界中が現在、一般的に認知するオーストラリア人)は、白豪主義と呼ばれる白人優越政策でアボリジニを差別し続けてきました。
白豪主義(いろいろな差別)
この1970年まで続くこととなる白豪主義のもとで、先住民のアボリジニは、さまざまな酷い差別を受け、泥をすするような生活を余儀なくされました。
具体的な差別としては、
•ホテルに入ってはいけない
•酒を飲んではいけない
•自由に移動してはならない
•自由に結婚してはいけない
•親は子の親権を持てない
•独自の文化を捨てなくてはならない
という勝手に侵略しておきながら反吐が出るような政策を実施します。また、何よりもそれを主導していたのが【隣人愛】がモットーのキリスト教教会だとは聞いてあきれます。
(だから、自分はオーストラリアのキリスト教は苦手なんですよね。自分もかなり嫌な体験したので。詳しくはコチラ↓)
ただ、こうした白豪主義のもとに行われた差別の数々は、時代が進むにつれ国際的な非難の対象となり、1973年、ついに正式に白豪主義は撤廃されます。
これで一安心、みんな平等に幸せになると思いたいですが、これでは終わりません。
今も残る差別
法律的には平等になりながらも、200年続いた植民地支配で、《加害者》と《被害者》の両者の社会的な差は歴然としています。
この200年間、白人による白人の考えのもとに運行している社会システムに、いくら地位が平等になったとはいえ、200年間まともな教育を受けてこなかったアボリジニが入る余地はありません。
今までの罪滅ぼしといわんばかりの雀の涙みたいな補助金もでますが、200年かけて広げられた貧富の差は埋まるはずもありますん。
やがて、社会的な順応に苦しみ、低賃金の仕事にばかり従事し、さらに自分たちの先住民としてのプライドや文化アイデンティティも既に奪われて久しいアボリジニたちは、徐々に自暴自棄に陥ります。
酒、ドラッグに溺れ、政府からの補助金もそれに使ってしまいます。
そして、多くの白人は、そういう彼らを<自堕落なだけだ。もう差別はなく、機会はみんな平等なのに> と軽視し、雇用主は、ますますアボリジニに対しての偏見を強め、雇用を避けるという悪循環が生まれます。
やがて、多くのアボリジニたちは、お金を求め、街に出て物乞いをするようになり、それが現在も続いています。
僕も実際アデレードに住んでいたことがありますが、物乞いの方はほぼアボリジニでした。
一度、アデレード駅近くのヒンドリー通りで、乳母車を押したアボリジニの方にせがまれ、お金を渡したことがありますが、よく見るとその乳母車に毛布をかけられ、肌の一部のみ見えていたその赤ちゃんは人形でした。(キューピー人形のたぐいでよく見るまで気づかなかった)
(ヒンドリー通り)
それくらい彼らも必死で、この不条理に生きていると思うと、文句も言えずその場を離れたことを今でも鮮明に覚えています。
あのヒンドリー通りの出来事から10年以上の月日を経た2023年、オーストラリアでアボリジニの声を政策に反映しやすくするための機関を創設することな対し、国民投票が行われました。
しかし、60%の反対多数で否決されました。
自分は今まで《オーストラリア、アメリカ、中国、マレーシア》と各国でクビになり続けながらも15年間海外で生活しています。そして、その最初の地となったオーストラリアという国には特別な思い入れがあります。
しかし、この国民投票の結果には心底残念でした。
これからオーストラリアに行く皆さんも、冒頭で紹介したような良い部分もたくさんあるこの国には、このような非道な歴史、今も続く偏見があることを知ったうえで渡豪していただけたらな、と思います。
今回は以上です。